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Chapter 36 モルナ③

2023.01.10

作/Donato La Bella 文/渡部嵩大 監修/関浩一

第36話

イグニフェールを失った龍の心には、大きな痛みと空虚感だけが残った。龍の精霊が消失したことは、翔や明にもすぐにわかった。そして精霊との付き合いが長い明をもってしても、その心境は計り知れなかった。
「白い精霊は、単に我々に力を与えるだけの存在ではない。心と体の一部なのだ。龍が今感じている喪失感は想像すらつかない。雷、お前は一体何になってしまったんだ……。」

翔もこの状況を飲み込むことができなかった。これほどまでに邪悪な力が存在するとは考えたくなかったし、兄が仲間に対してその力を用いたことは到底受け入れられなかった。心のどこかでは、雷は今でもあの優しかった兄なのだという希望を抱いていたが、その幻想は完膚なきまでに打ち砕かれた。

翔はこれまで、雷を倒し、本来の兄の姿を取り戻すという未来を信じて疑わなかったが、ここに来てその自信が揺らぎ始めていた。彼は今、雷に対して確かな恐れを抱いていた。雷を倒すことなど、本当にできるのだろうか。ネモスも同じ未来を辿ってしまったら……? 色々な不安が頭の中を渦巻き始めたとき、ネモスが現れた。

「風の子よ、よく聞くがいい。恐れることは当たり前のことだ。恐れを感じないのは愚か者だけだ。恐怖を抑え込むのではなく、味方につけなさい。大事なのは、その時にどのような対処をするかだ。それができれば、恐怖は強さにもなる!」
「ありがとう、ネモス」

龍は胸を締め付けられる思いで必死に平静を装っていたが、無情にも試合は進み続けた。空いた穴から目を背けるように、彼はテーブルに向かった。これまでと変わらず力強いブレイクを放ったが、イグニフェールの力を借りることはできず、ポケットインは3球にとどまった。さらに都合の悪いことに、龍の腕の限界が近づいていた。ブレイクショットの蓄積により痛みは強くなり、彼はまさに絶体絶命の状況に置かれていた。それでも龍は、意地でこのゲームを取り切り5-4とした。イグニフェールを失ったのはあまりにも大きな痛手だったが、それを理由に弱さを晒すことはプレイヤーとしてのプライドが許さなかった。

「素晴らしい、精霊を失ったこの状況で、なお戦い続けるか! ははは!」
雷は心底愉快そうな様子で立ち上がった。彼はブレイクの準備に入ったが、それまでと変わったことがあった。その違和感にいち早く気が付いたのは、他でもない龍本人だった。雷のブレイクの構えが、龍と全く同じフォームになっていた。龍は最悪の事態を想像したが、すぐにそれが現実であることを突き付けられた。雷は龍の元からイグニフェールを消し去っただけではなく、イグニフェールの力を手に入れていたのだ。龍のブレイクを上回る威力で手球が放たれると、残されていたのは手球と⑩だけだった。

「イグニフェールはどこかに行ったとでも思ったか? 良いことを教えてやる。イグニフェールは元気にやってるよ、モルナの中でな! お前の力もいただいたって訳だ。ははは、面白いだろう!」

精霊の使い手たちに取ってこれは信じがたいことだった。想定外の事態に、明の表情も一気に険しくなった。
「これはとても悪い状況だ。雷が他の精霊も倒し続けると、いずれ全てのエレメントを手にするかもしれん。本来、人は皆自分に合ったエレメントを磨いていくものだ。全てのエレメントを手に入れるなど、いまだかつて聞いたことがない。それが黒い精霊の使い手とあっては、破滅的な結果を招くことになりかねん……!」

明は翔の肩をつかんで振り向かせると、言葉を続けた。
「翔、手を打つのが遅すぎた。これ以上精霊が雷の手に渡るような事態は、何としてでも避けねばならない。1人で立ち向かうのはあまりに危険だ。皆が協力すれば機会があるかもしれい!」
「いや、俺は雷に勝つって誓ったんだ。雷に勝つ方法なんて、ビリヤードで直接倒す以外にはない。俺は絶対にやって見せる。そのためには師匠、いや、父さんにも信じてもらわなきゃならない」

翔は一切ひるむことなく、そう言い切った。明は少しだけ悩む素振りをすると、意外にもあっさりと翔の言葉を受け入れた。
「そうだな、ビリヤードでけりをつけるしかないに決まっている。大丈夫だ、私は二度と同じ間違いはしない。雷が力をつけ始めたとき、俺は息子を信じることができなかった。その結果がこれだ。今度は息子のことを信じることにする。翔、私はお前を信じている」

試合は5-5と雷が再び追いつき、龍のブレイクが終わったところだった。腕の酷使か祟ったのか、今度は的球が1級もポケットしなかった。しかし、①が他の的球に隠されて直接狙えない位置に出ていた。ここで雷はプッシュアウトをして、相手に判断をゆだねるという選択肢もあった。しかし、燃えたぎる雷にそのような考えは一切なく、すぐにジャンプキューを握った。ジャンプショットで①に直接当てるにはかなりの距離を飛ばす必要があったが、雷にとってはむしろちょうど良い配置のようだった。強烈なバックスピンをかけながらも正確無比に飛んだ手球は危なげなく①を沈め、鋭く引き返し②にぴったりと出た。そこからは何の問題もなく⑩まで取り切った。続くゲームもブレイクで大量に的球を入れ、あっという間に5-7となった。

龍のブレイクが回ってきたが、彼はついに戦意を失ってしまったようだった。よりどころにもなっていたイグニフェールが雷の手に落ちたという事実は、あまりにもショックが大きかった。翔や明、すみれはどうにか龍に元気を届けようと応援したが、もはや龍の視界には一切入っていなかった。龍のブレイクは失敗し、それが龍のこの大会最後のショットとなった。雷は残り2ゲームを取り切り、当然だと言わんばかりの表情で決勝に勝ち進んだ。

試合を終えると、龍は仲間と目を合わせることも、口を開くこともなく控室へと向かった。絶望の中にいる友を見て、翔は声をかけようと追いかけた。このままだと、龍までもが闇に染まってしまうかもしれないと思った。しかしその思いは、無機質な会場のアナウンスによって遮られた。翔とケヴィンの試合を告げる声が、翔の頭にこだました。

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